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2023.12.1 07:00ゴー宣道場

【ゴー宣ジャーナリスト】謝罪についての考察

おはようございます。
ケロ坊です。

 

前回は「謝罪は奥が深い」で終わっていましたが、今回は「謝罪とはいかなるものなのか」という点から考えを進めてみます。

とはいえ、広く始めても迷子になるのでまず定義します。
謝罪はする側とされる側がいますが、される側の話も含めると「そんな謝り方では許さない」なんて状況もあってよくわからなくなるので、“謝罪する側”に焦点を絞ります。

『謝罪』という言葉について調べてみると・・・
「罪や過ちをわびること」
「自らの非を認め、相手に許しを請う行為」
大体このようにあったので、謝罪をめぐる状況を4パターンに分けてみました。
①非を認めて謝る
②非を認めても謝らない
③非を認めてないけど謝る
④非を認めてないから謝らない

前回書いたように、指定座席という明確な事実があるケースはわかりやすいです。障壁になるのはメンツやプライドくらいで、私情よりも公共心を取れば済みます。これが①です。
また、先日の『歌謡曲を通して日本を語る#3』では、チェブリンが各支部からの希望通りには実現できないと謝っている場面がありました。これは非とまでは言えないと思いますが、責任ある総合Pとしての言葉ですね。さすが連合艦隊司令長官。

逆に②の非が明白なのに謝らないのはかなり印象が悪くなります。前回で言えば座席を間違えたのに何も言わずヘラヘラしてるケースです。
ちなみに統一協会のトップは会見で「おわびはするが謝罪ではない」なんてわけのわからないことを言って日本語を破壊していました。これも②のようなものですね。ただ解散を避けたいから言ってるだけなのがミエミエなんですけども。

③非を認めてないけど謝る ここからややこしくなってきます。
このパターンは、「相手に許しを請う」の気持ちが先行して、あるいは圧力をかけられて、非ではないと思ってるけど非ということにして謝ってしまうという形です。
これは前回のトッキーさんの補足にもありましたが、一時期の中韓に対する日本政府の謝罪外交を思い浮かべればわかりやすいかと思います。

まず「謝れば許される」という認識はどこから来たのかと言えば、十中八九、幼少期の親からのしつけ、保育園、幼稚園、学校教育などからでしょう。
喧嘩両成敗で謝罪させられたということもよく聞きます。
日本人は世間の空気で生きてるので、「この場を取り繕うためにとりあえず謝っておこう」というのもありがちですが、学校生活ならいざ知らず、現実の世界はそんなふうには出来ておらず、本質的に弱肉強食ということを、自立した大人なら認識するべきでしょう。

 

さらに、その謝れば許されるという感覚の歴史的なルーツを探ってみると、『国防論』の33ページ目にこのような描写があります。
小林先生は東日本大震災の被災地の壮絶さを目の当たりにして、西洋、シナ、モンゴルといった大陸では人が人を侵略して皆殺しにする有事があると対比させた上で、このように思想します。

「日本人の憎悪は長続きしない。日本人の警戒心は緩く、薄く、甘い。
 それは外国の「皆殺し史観」と「天災史観」の違いによるものだろう。」

日本人が酷い目に遭わされるのは主に自然からであって、ひいては人が敵ではなかった長い歴史があります(日本列島に人が来たのはおよそ3万年前と言われています)。
それがお人好しで、とりあえず謝ってしまうという行動として表れているのかも知れません。

 

これが前提で、次に肝心なのは本当に非があったのか、そしてそれをちゃんと調べたのかどうかです。
すぐ明らかになるミスならいいですが、やってもない、またはやったかどうか曖昧なのに罪を認定してしまうことの危険さは、ジャニーズ問題はもちろん、草津の冤罪、慰安婦問題(それにしてもこれらの例は全て性関係ですね)でも示されていますし、「日本の戦争は悪に決まってる」という東京裁判的な先入観に逆らって、きちんと検証したのが『戦争論』であり、『パール真論』でもあります。

ジャニーズ問題については「事務所は非を認めてるぞ!」と言う人がいるのは知っていますが、まさにそこが問題で、本当にあったかどうかの検証を全然していませんし、自称被害者たちは警察にも司法にも出ていないことは、ジャニーズファンとゴー宣読者はもうよく知っています。
そして厄介なのが、マスコミの造る空気に流されてるだけの人は、その点を認識出来ません。「テレビが言ってるんだから本当に決まってるだろ!」みたいな態度です。3年間続いたコロナ騒動と同じですね。あとは天皇は男系と盲信してる人も同じです(「ネトウヨ村でみんながそう言ってるんだい!」っていう)。

慰安婦問題における朝日新聞のような「謝ることはしたけど、非を全く反省してない(=証言を鵜呑みにする)」も、この③のパターンかも知れません。
実は非を認めてなかったのならそれはそれで問題ですし、非を認めたけど反省はしてないのなら、それはもう同じミスを繰り返すということで思考力がないのであって、メディアとして信用に値しないとしか言いようがないのですが。

そしてマスコミの話になったまま雪崩込みますが、④非を認めてないから謝らない は、悪いほうの意味ではマスコミ全般が当てはまります。
マスコミがいつもやっているのは、「非であっても非と認めなければ謝らずに済む」というものだからです。
羽生結弦さんの離婚時のコメントでマスコミは「メディア媒体」と名指しされていますが、「我々はやりすぎた」などと言っているメディアはあるのでしょうか。むしろSNSのせいにするのが今のマスコミのトレンドのようです。
名指しされているのに、自分事でなく他人事にするマスコミ人は、わざとやってるとしか思えません。
かと言ってマスコミをなくしたら、国民が今の情報を取れなくなるので、民主制政治が機能しなくなりますし、実際になくなることもないので現実的ではありません。
となれば、国民の側がマスコミはそういう病的な性質があると認識することが必要かと思います。

また、同じ「謝らない」であっても、宝塚運営のような、「“みんな”が言い募っているけど、自分に非はない」という姿勢は、世間に悪人にされても保ち守るという意思表示であり、公を守るための個があるということでもあります。
小林先生が言われているこの姿勢は何も最近のものではなく、25年前の『戦争論』25ページ目ですでに提示されていました。
悪魔的な表情とともに「このサヨクな空気に逆らうわしは悪党になる」と。

何しろ昨今は闘いの構えを解いたら、相手(マスコミ)は図に乗り、一気に叩き潰されかねない世の中です。
11/20(月)のモーニングショーでは、羽鳥と玉川が、宝塚には厳しい規律があって時代錯誤だとかジグジグ文句を言ってましたが、そんなことを言われても宝塚が消滅してしまうことなど誰も望んでいません。
「文化より人権」のマスコミは、ジャニーズを潰した直後にも平気でこういうことをやってるんだなと呆れると同時に、やはりマスコミは常に狂っているんだと思わされます。

といった感じで、謝罪について4つのパターンから考えてみました。
ここまでに挙げたケース、
指定席の間違い、責任者としての姿勢、統一教会の言い訳、ジャニーズ問題、宝塚運営の姿勢、コロナ騒動、男系固執問題、日本悪玉史観、マスコミ問題、朝日新聞の姿勢。
これら全部通して、最初の『謝罪』の言葉の意味に戻るなら、やはり本当に非があるのか、罪があるのかどうかが肝心であって、それを思い込みや先入観やデタラメや雰囲気や信仰でなく、事実に基づいて見定めることがカギですね。
シンプルに言えば、「現実見ろ」が結論です。

 

【ケロ坊プロフィール】

昭和53年埼玉県生まれ。2001年から3DCGデザイナー、主にアニメーションが多め。ゴー宣については薬害エイズ事件の時に同級生と「今日厚生省前で何かやってるらしい」と話した記憶あり。公論イベントのグッズデザインに関わる。好きなアニメは『ひな鳥の冒険』と『カーズ/クロスロード』。心のゲームは『スナッチャー』。魂の曲は『誰しもいつか止まる心臓を』。

 


 

【トッキーコメント】
慰安婦問題の際の日本政府も、そしておそらく旧ジャニーズ事務所も「謝れば許される」という感覚で臨み、最悪の結果を招いてしまったわけですが、この「謝れば許される」という感覚は極めて日本人的なものではないかという指摘は、心にとどめておくべきことではないかと思います。

謝っちゃいけないところで謝ってしまう「謝れば許される」の思い込みも、謝るべきところで謝らない「謝ったら死ぬ病」も、どっちも誤り!
この見極めができる人って、ほとんどいないのかもしれません。

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